日本版DVD未発売の韓国のビョン・ヨンジュ監督『ナヌムの家』3部作DVD(韓国版)が、発売になっている。韓国では2007年に発売されたのだが、しばらく品切れになっていた様子。現在、在庫が補充になったようで、下記のアドレスで購入することができる。
(1月25日現在)
オンライン・ブックショップ・ソウル・セレクション
NTSC、リージョンALLなので日本で発売されている一般のDVDプレーヤーで再生することができる。また、なんと日本語字幕がついている!(韓国語、英語字幕もある)
(16mmフィルム版についている日本語字幕とはかなり翻訳が異なっている)
重要な作品なので、日本版のDVDが発売されるべき作品だと思うのだが、未発売。第1部についてはVHSビデオが発売されているので、地域の女性センターなどで見ることができる。
私は2009年の山形映画祭にて、配給会社のパンドラ・中野理惠代表にお会いしたとき、早く日本語版のDVDを発売するように強く要請したのだが、海外配給権がどこかの会社に売れてしまったとのことで、日本版の発売までにはまだ少し時間がかかるかもしれない。
ビョン・ヨンジュのこれまでの作品を通じていえることは、映画作家として、作品のたびに方法論を変え、新しい表現スタイルにいつも挑戦していること。私は第3部の『息づかい』が最も好きな作品である。この映画は、やはり3部通して見るべき作品といえるだろう。『息づかい』では、韓国のろう者の手話を見ることができる。
火曜日, 1月 26, 2010
日曜日, 8月 19, 2007
『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)
「八月。死者たちの霊があたりに立ちこめる。」
ノーマ・フィールドは、『天皇の逝く国で』(1994)を
そのように書き出したと記憶している。
日本の八月は死者たちの月。
ノーマ・フィールドは、『天皇の逝く国で』(1994)を
そのように書き出したと記憶している。
日本の八月は死者たちの月。
それは、死者たちの追憶と追悼をめぐる、政治の月でもある。
毎年八月になると、マスメディアの多くは戦争の記憶をめぐる報道に
多くの(いくらかの)資源を割く。しかしながら、それが、現在の日本社会を
生きる人々の思いや感受性に届いているのだろうか、つねづね考える。
戦争をめぐる表現や記録を目にする機会も増えるが、その表現の質のあり方に
ついて、いくつかの公開中の映画作品を通じて考えてみたい。
特に、原爆の語りと記憶をめぐる新作が、今年は多く上映されている。
◆『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)
公開中のドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』の冒頭で、原宿の街頭で
多くの若者にインタヴューする光景が挿入される。
「1945年8月6日に何が起きたか、知っていますか?」
知っていると答える若者は一人もいない。
まさか、本当だろうか。私は目を疑い、
それは、そのように巧みに編集されたものだという意見を友人に述べた。
しかしながら、友人の答えは違った。「君は現実を知らない。実際に街頭で
インタヴューをしてみたまえ」
私は実際に街頭インタヴューはしなかったが、思い立って8月15日、
バイト先のある若者に実際に聞いてみた。
「8月15日は何の日だか、知ってる?」
回答はNOであった。本当に8月15日を(さえ)知らなかった。
現実を知らないのは私のほうであった。
『ヒロシマナガサキ』は被爆者の証言を丁寧に再構成して、
観る者の前に提示する映画である。
「すぐれたドキュメンタリーはシンプルなものだ」という監督のポリシーに基づき、
ナレーションや解説は一切挿入されず、証言と記録映像のみを構成することに
よって、そこに含まれるメッセージや政治性については、観客に自ら考えるべき
ものとして、投げかけられている。
声高にではなく淡々と、語る被爆者・関係者の証言が、その事実の深みを
表現する。
作品の編集と完成度は見事なものである。特に、被爆直後の子どもの
記録映像と、現在の証言者(本人)の語りがカットバックする構成や、
被爆者の描いた絵画と60年後の現在の静かな証言がかぶさる構成には、
思わずふるえを覚えずにはいられない。
被爆者の証言をテーマごとに構成しなおすことによって、そこに映画としての
物語を作り出すこと。静かな作品であるが、監督の強い意思がそこには
反映している。
何よりも、この作品は第一にアメリカの人々に対するものとして制作された。
そこには、共感の普遍性への意思が強く働いている。被爆地・日本におい
ては多数の記録作品や物語、映画、文学が作られてきたが、それが本作品
の解説パンフレットで佐藤忠男が指摘するように、どの程度広く国内以外の
世界の人々に伝わってきたのか、考え直させられる契機を、
この映画は含んでいる。
しかし他方、重要な政治的テーマに答えを見いだしていない、という見方も
あるだろう。
それは、第二次大戦を終わらせるために、「原爆投下は必要だった」という
恐るべき「政治神話」に対する有効な反論をこの映画は十分に提示してい
ないからだ。
おそらく、監督の意思は本作品を政治性から遠ざけ、事実と証言を提示
するというスタンスに徹することによって、あえて多くの「アメリカ人」に対する
共感を呼び起こしたい、という点にある。
その点が、あえて被爆地・日本の視点から見るとどこかに物足りなさと、
思想的な不十分さ、歴史的な検証の欠落を感じてしまう部分でもあろう。
一つ一つの証言が力強く迫ってくるがゆえに、観客の側には痛みとともに、
多くの「問い」が去来するに違いない。
そして、この映画は「答え」を用意することをしない。
しかしながら、何よりもその点、
「考えるべきことは観る者の側に」ゆだねられている、
それが、この『ヒロシマナガサキ』という作品を日本で見ること、
向き合うことの意味だ、と、私にはそのように思われるのだ。
(後編につづく)
※ 後編では、『夕凪の街 桜の国』『二重被爆』を扱います。
『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)
(2007年/アメリカ/デジタル(ビデオ)/86分)
作品公式サイト:http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki
毎年八月になると、マスメディアの多くは戦争の記憶をめぐる報道
多くの(いくらかの)資源を割く。しかしながら、それが
生きる人々の思いや感受性に届いているのだろうか
戦争をめぐる表現や記録を目にする機会も増えるが
ついて、いくつかの公開中の映画作品を通じて考えてみたい。
特に、原爆の語りと記憶をめぐる新作が、今年は多く上映されてい
◆『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)
公開中のドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』の冒頭で
多くの若者にインタヴューする光景が挿入される。
「1945年8月6日に何が起きたか、知っていますか?」
知っていると答える若者は一人もいない。
まさか、本当だろうか。私は目を疑い、
それは、そのように巧みに編集されたものだという意見を友人に述
しかしながら、友人の答えは違った。「君は現実を知らない
インタヴューをしてみたまえ」
私は実際に街頭インタヴューはしなかったが、思い立って8月15
バイト先のある若者に実際に聞いてみた。
「8月15日は何の日だか、知ってる?」
回答はNOであった。本当に8月15日を(さえ)知らなかった。
現実を知らないのは私のほうであった。
『ヒロシマナガサキ』は被爆者の証言を丁寧に再構成して
観る者の前に提示する映画である。
「すぐれたドキュメンタリーはシンプルなものだ」という監督のポ
ナレーションや解説は一切挿入されず、証言と記録映像のみを構成
よって、そこに含まれるメッセージや政治性については、観客に自ら考える
ものとして、投げかけられている。
声高にではなく淡々と、語る被爆者・関係者の証言が
表現する。
作品の編集と完成度は見事なものである。特に、被爆直後の子ども
記録映像と、現在の証言者(本人)の語りがカットバックする構成や
被爆者の描いた絵画と60年後の現在の静かな証言がかぶさる構成には
思わずふるえを覚えずにはいられない。
被爆者の証言をテーマごとに構成しなおすことによって
物語を作り出すこと。静かな作品であるが、監督の強い意思がそこ
反映している。
何よりも、この作品は第一にアメリカの人々に対するものとして制
そこには、共感の普遍性への意思が強く働いている。被爆地
ては多数の記録作品や物語、映画、文学が作られてきたが、それが本作品
の解
世界の人々に
この映画は含んでいる。
しかし他方、重要な政治的テーマに答えを見いだしていない
あるだろう。
それは、第二次大戦を終わらせるために、「原爆投下は必要だった
恐るべき「政治神話」に対する有効な反論をこの映画は十分に提示
ないからだ。
おそらく、監督の意思は本作品を政治性から遠ざけ
するというスタンスに徹することによって、あえて多くの「アメリカ人
共感を呼び起こしたい、という点にある。
その点が、あえて被爆地・日本の視点から見るとどこかに物足りな
思想的な不十分さ、歴史的な検証の欠落を感じてしまう部分でもあろう。
一つ一つの証言が力強く迫ってくるがゆえに、観客の側には痛みと
多くの「問い」が去来するに違いない。
そして、この映画は「答え」を用意することをしない。
しかしながら、何よりもその点、
「考えるべきことは観る者の側に」ゆだねられている、
それが、この『ヒロシマナガサキ』という作品を日本で見ること、
向き合うことの意味だ、と、私にはそのように思われるのだ。
(後編につづく)
※ 後編では、『夕凪の街 桜の国』『二重被爆』を扱います。
『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)
(2007年/アメリカ/デジタル(ビデオ)/86分)
作品公式サイト:http://www.zaziefilms.com
月曜日, 7月 30, 2007
『サイドカーに犬』
『サイドカーに犬』(根岸吉太郎監督/配給:ビターズエンド)
http://sidecar-movie.jp
小品だが、しかし、とてもいい作品だと思う。
最近の日本映画のテーマの一つに、「家族」「恋人」「友人」のような、
カテゴリカルな関係に還元されない、オリジナリティのある関係を描こうと
する流れが存在している。これは、現代日本社会が高度情報化と都市化
のなかで人と人との関係性が流動化し、どのような着地点をもつのか、
多くの人々にわからなくなっていること、そしてその中で多くの文学表現が
何か共感を呼ぶ新しい関係性を描き出そうと、あがいていること、
そのことに底流が求められるだろう。
小学4年生の薫(松本花奈)は、ある日母親の家出と入れ替わりに家に
やって来た、ヨーコさん(竹内結子)という女性と出会い、ひと夏の、
年の離れた不思議な友情を結ぶ。
この作品が描こうとする物語は、青春ドラマでもないし、恋愛ドラマでもない。
かといって、子どもの視点からみた成長ドラマ、といい切れるわけでもない。
これは、現代児童文学が、対象化としようとしているテーマ性に近い
作品だと思う。そこにあるのは、定型的な戦後的「近代家族」が80年代以降に
流動化してゆくなかで、子どもがどのように自身の生き方を見いだしていくのか、
という現代的テーマだ。
『M/OTHER』(99)『火垂』(01)などで現代日本映画の一角を担う、
猪本雅三の瑞々しい動くキャメラ、根岸監督の作りすぎない自然な演出が、
主演の二人(薫、ヨーコ)の表情を活き活きと捉えている。
作品公式サイト;http://sidecar-movie.jp
http://sidecar-movie.jp
小品だが、しかし、とてもいい作品だと思う。
最近の日本映画のテーマの一つに、「家族」「恋人」「友人」のような、
カテゴリカルな関係に還元されない、オリジナリティのある関係を描こうと
する流れが存在している。これは、現代日本社会が高度情報化と都市化
のなかで人と人との関係性が流動化し、どのような着地点をもつのか、
多くの人々にわからなくなっていること、そしてその中で多くの文学表現が
何か共感を呼ぶ新しい関係性を描き出そうと、あがいていること、
そのことに底流が求められるだろう。
小学4年生の薫(松本花奈)は、ある日母親の家出と入れ替わりに家に
やって来た、ヨーコさん(竹内結子)という女性と出会い、ひと夏の、
年の離れた不思議な友情を結ぶ。
この作品が描こうとする物語は、青春ドラマでもないし、恋愛ドラマでもない。
かといって、子どもの視点からみた成長ドラマ、といい切れるわけでもない。
これは、現代児童文学が、対象化としようとしているテーマ性に近い
作品だと思う。そこにあるのは、定型的な戦後的「近代家族」が80年代以降に
流動化してゆくなかで、子どもがどのように自身の生き方を見いだしていくのか、
という現代的テーマだ。
『M/OTHER』(99)『火垂』(01)などで現代日本映画の一角を担う、
猪本雅三の瑞々しい動くキャメラ、根岸監督の作りすぎない自然な演出が、
主演の二人(薫、ヨーコ)の表情を活き活きと捉えている。
作品公式サイト;http://sidecar-movie.jp
木曜日, 3月 23, 2006
ブロークバック・マウンテン
アカデミー監督賞受賞の話題作、『ブロークバック・マウンテン』を見てきた(@京都シネマ)。うん、まあまあ、いや、結構よくできていて、なかなか良いのではないかと思った。はっきり言ってハリウッドがらみのアメリカ映画だし、基本的にあんまり期待しないで見に行ったのだが、思ったより良かったというのが率直な感想だ。ゲイともバイセクシュアルともつかぬ、深い友情とも恋愛ともとれる、若きカウボーイの男二人の恋愛関係を軸に、男性同士の性関係が帰結する現実社会との葛藤が描かれる。題名の「ブロークバック・マウンテン」はロマンティックな恋愛関係が成就する理想郷の象徴である。主演のヒース・レジャーとジェイク・ギレンホールの演技が渋すぎて巧い。また、演出も繊細で、ロマンティックで細やかな感情から、複雑な人間関係の葛藤まで丁寧に描き出す。原作は短編小説であり、プロットは非常にシンプルでわかりやすい話ではあるのだが、演出の繊細さと巧みさ、主演二人の演技の良さが作品の価値を生み出している。観賞後、味わいのある人間ドラマのじわりとした感動が、観客に与えられる秀作である。一つ、議論を提起しておこう。ゲイものの作品には常につきまとう論点だが、女性の描き方をどのように見るかが一つの議論になるところであろう。この作品でも、女性に対するカウボーイの旧弊なマッチョな男ぶりやミソジニック(女性蔑視的)な身振りが描かれるが、それは男同士の恋愛関係と対比する形で提示される。二人の男の関係は葛藤をかかえながらも理想化され純愛ともいえる昇華のされ方をするが、比べ、女性との関係はセクシュアルな欲望や関係は描かれるものの、現実の苦い生活のディティールを対比的に顕わにするものとして描かれる。最後までポジティブに描かれるのは、父としての娘への愛情のみである。女性は常にこの物語の周縁だ(男二人の恋愛物語なのだから、一編の映画のプロットとしては必然なのかもしれないが…)。女性の描き方が過度にステレオタイプだとまでは思わないが(例えば、妻役のミシェル・ウィリアムスの演技と存在感が、その点、この作品の重要部分を救っていると思う)、私としては、この男同士の関係の物語における「女性の周縁化」が気になる。映画のチラシの中に引用されている雑誌の評価コメントの中に、この作品を「革新的な恋愛映画」と評価するものがあるが、もし、仮に、この作品の主題が、女性同士の恋愛関係と社会の葛藤を描いたものであったとしたら、もっと「革新的」な作品になり得ていたといえるであろう。
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