火曜日, 1月 26, 2010

「ナヌムの家」3部作DVD(韓国版・日本語字幕あり)

日本版DVD未発売の韓国のビョン・ヨンジュ監督『ナヌムの家』3部作DVD(韓国版)が、発売になっている。韓国では2007年に発売されたのだが、しばらく品切れになっていた様子。現在、在庫が補充になったようで、下記のアドレスで購入することができる。
(1月25日現在)
オンライン・ブックショップ・ソウル・セレクション

NTSC、リージョンALLなので日本で発売されている一般のDVDプレーヤーで再生することができる。また、なんと日本語字幕がついている!(韓国語、英語字幕もある)
(16mmフィルム版についている日本語字幕とはかなり翻訳が異なっている)

重要な作品なので、日本版のDVDが発売されるべき作品だと思うのだが、未発売。第1部についてはVHSビデオが発売されているので、地域の女性センターなどで見ることができる。

私は2009年の山形映画祭にて、配給会社のパンドラ・中野理惠代表にお会いしたとき、早く日本語版のDVDを発売するように強く要請したのだが、海外配給権がどこかの会社に売れてしまったとのことで、日本版の発売までにはまだ少し時間がかかるかもしれない。

ビョン・ヨンジュのこれまでの作品を通じていえることは、映画作家として、作品のたびに方法論を変え、新しい表現スタイルにいつも挑戦していること。私は第3部の『息づかい』が最も好きな作品である。この映画は、やはり3部通して見るべき作品といえるだろう。『息づかい』では、韓国のろう者の手話を見ることができる。

木曜日, 1月 21, 2010

NPO法人WAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)における労働争議

 現代日本における女性運動(ここでは、便宜的にジェンダー/フェミニズムに関する運動を総称する)のインターネット上での情報提供と相互ネットワークを目的に昨年立ち上げられた、NPO法人WAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)で、法人に雇用された2名の労働者と、使用者側であるNPO理事会との間で、労働争議が起こっている。当事者の「労働条件の不利益変更」に関する、事実認識のくい違いが原因で、ユニオンがNPO公式サイトに投稿した主張を、理事会が2度にわたって削除する、という事態になっており、インターネット上でも、大きな注目を浴びる結果となっている。
 現在、双方の協議が続けられており、1月20日には京都市下京区のWAN事務所にて、労使による団体交渉が行われた。理事会側の出席者は約4名。(労働者側と支援者の出席人数は約16名)

 ここに至るまでの事実関係を、以下、簡単に整理してみます(文責は私にあります)。

 WANサイトは立ち上げ当初から、現場ウェブ管理者の遠藤礼子さん(ユニオンWAN委員長)と、当初の制作会社が共同で構築し、管理していた。ウェブ登録団体から投稿された活動レポート、論説などをサイトに掲載するかどうかの実際上の判断、および問い合わせなどのユーザーサポート、システムモジュールのカスタマイズ(現在のWANシステムは、GPLに基づくオープンソースCMSであるXOOPS Cubeを利用している)など、ウェブ管理における実務的な判断は、現場労働者である遠藤さんら2人に、事実上、任されていた。遠藤さんらの給与については、時給で決められており、当事者としては、サイトのウェブマスターの業務、およびその他付随する一切の業務を、メインの仕事として雇用されている、という事実認識だった。実際に、昨年5月のWANサイトの立ち上げから半年間にわたり、ウェブシステム構築(CMS構築)と管理作業の多くの部分が、遠藤さんらの努力によって成り立っていた。しかし、昨年12月中旬、理事会は、WAN公式サイトの「リニューアル(実際には「プチ・リニューアル」と、システムの完全リニューアルの2段階に分けられている)」」と、ウェブシステム構築業務の新たな受注会社を、当事者に相談することなく、理事会専権事項として、先行して決定してしまった。それが原因で、ユニオン委員長の遠藤さんの仕事は、今後、「新たな受注会社と理事会(とボランティアスタッフ)が共同」で行うことになり、いままでの業務に、大きな変更を強いられる結果となるに至った。事実上仕事を干されてしまった遠藤さんの「労働条件の不利益変更」を認めないとして、1月4日、ユニオン側は、WAN公式サイトに「登録団体からのレポート(活動レポート)」として労働者側の主張をアップしたが、即日削除された。ユニオン側はそれを受け、急遽別サイトを立ち上げ、削除された主張を掲載。WAN理事会側は、「遠藤さんの労働条件については協議中の事項」として、サイトリニューアルと新たな受注会社の決定については、ユニオンの主張する「外注」にあたらない、という見解を示していたが、双方の協議は整わずに終わった。1月8日、ユニオン側はまたも主張をアップしたが、再度削除された。ここにおいて労使の対立は決定的なものとなり、1月18日にいたり、理事会から業務命令違反としてメールでの警告が行われるに至った。

 WAN公式サイトへの投稿掲載の可否については、編集部(理事会によって構成)の承認によることとなっているが、何が掲載され、何が削除されるのか基準は明確ではなく、おそらく一般閲覧者の十分な信頼を受けるには至っていない、という残念な結果となっている。

 20日に行われた団体交渉では、双方の認識の食い違いが目立ち、遠藤さんの労働契約についても書面で明示的に交わしていなかった、という事実が明らかになった。団体交渉では、理事会側と、現場実務を実際に担当しているスタッフとのコミュニケーションの齟齬が強く印象に残り、事務局内部で必要な相互の信頼関係を失ってしまったことが、今回の問題の原因の一つであることが感じられた。

 以下は、団体交渉に支援者として出席した私の個人的見解です。

 日本におけるジェンダー/フェミニズムに関する運動と労働運動を両者とも活発にしてゆくべき、という私の考えから言えば、非常に残念なことなのだが、最大の疑問点は、そもそもウェブサイト構築を主要な活動として、年間約600万円(理事発言による)という予算額のNPO法人を立ち上げることについて、十分な運営責任の自覚が理事会側になかったのではないか、という問題である。現在約200人弱(理事発言による)という会員から、会費と、各方面からの寄付を集めて運営する法人としては、理事会側に社会的組織としての経営/運営の責任と、実際の現場業務を誰が担当するのか、という長期的見通しに関する自覚/方針が極めてあいまいだったのが、今回の問題の根本にあったのではないか。実際、NPO法人の経営状況は当初の見込みよりも収益が大幅に少ない状況(理事発言による)であり、会員や一般のサイト閲覧者にも、リニューアルの事実関係の経緯が不明、現場担当者にも実際の進行状況が不明な形で、主にウェブの外見(デザイン)と、経営状況を改善するために、今回の拙速な「大規模リニューアル」決定を急ぐ結果になってしまった、という理事会側の手続き上のミスが、労働問題が起こった大きな原因であろう。

 1月21日現在、WANサイトに関しては、ウェブ構築受注企業がどこの会社なのか、管理担当者が誰なのか、不明のまま一部リニューアルされたサイトが公開されており、この数ヶ月中にも、システムの入れ替えを含む、全面リニューアルが予定されているという。

 NPO法人法(特定非営利活動促進法)に基づく非営利組織が、日本社会でも大きな影響力と責任を持つ時代が到来するにあたって、今回のWANにおける労働争議は、極めて重要な問いを投げかけるものであると思われる。特に、従来注目されて来なかった、NPOなど非営利組織における労働者の権利の問題は、これから大きな社会的争点となってくるであろう。

 もう一つ、指摘しておかなければならないのは、大学教授を運営の中心とする非営利組織が、非正規(非常勤)の労働者を雇用する形で始まったWANのような運動体において、社会的発言力においても、運営上の決定権においても、立場性の大きな「差」ができてしまうのではないのか、という点だ。
 従来、フェミニズムや市民運動の現場では、社会のさまざまな立場・視点を持っている参加者は、それぞれ対等な立場で運動を担い、発言する(べき、という)のが何よりも原則であった(注・まあ、実際のところはいろいろあるにしても、…)。

 それをNPOとして組織化するにあたり、「有給スタッフ」を雇用するとすれば、理事会(法人)と、業務命令に従う労働者、という階級差を作らざるを得ない。WANには、有給スタッフの雇用を保障し、無給/有給を問わず、それぞれのスタッフが自由にその得意分野や技術を活かして活動するための「フェミニズム的な」スタッフ論や、そのノウハウ、および自覚がなかったのだ、と思う。

 その点で、今回のような労働問題は、立ち上げ時点から見えていたのであって、半ば必然的であったように思える。


 WANにおける労働争議の今後に、さまざまな方面からの注目を呼びかけたいと思います。


NPO法人WAN(ウィメンズ・アクション・ネットワーク)の公式サイトは、
http://wan.or.jp

ユニオン側の主張が掲載されたサイト(「非営利団体における雇用を考える会(仮)」というサイト名になっている)は、http://precariato.info

2010年1月21日

(文責:木村穣 レイバーネット日本・関西報道部/ライター&編集者)


(2010年3月20日、細かい点で用語の訂正や、てにおはを直すなどしました。趣旨は変えていません)
(2010年2月23日、最後の段落について、舌足らずであった部分を書き直しました)

(2010年2月5日、注記…最後の段落については、NGOや社会運動における参加者の「対等性」がどのように可能なのか、という問題や、スタッフ論として、少々考察が不十分だったように思います。今後の記事で、考えてみたいと思います)

日曜日, 8月 19, 2007

『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)

「八月。死者たちの霊があたりに立ちこめる。」
ノーマ・フィールドは、『天皇の逝く国で』(1994)を
そのように書き出したと記憶している。
日本の八月は死者たちの月。
それは、死者たちの追憶と追悼をめぐる、政治の月でもある。

毎年八月になると、マスメディアの多くは戦争の記憶をめぐる報道
多くの(いくらかの)資源を割く。しかしながら、それが、現在の日本社会を
生きる人々の思いや感受性に届いているのだろうか、つねづね考える。
戦争をめぐる表現や記録を目にする機会も増えるが、その表現の質のあり方に
ついて、いくつかの公開中の映画作品を通じて考えてみたい。
特に、原爆の語りと記憶をめぐる新作が、今年は多く上映されている。

◆『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)

公開中のドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』の冒頭で、原宿の街頭で
多くの若者にインタヴューする光景が挿入される。
「1945年8月6日に何が起きたか、知っていますか?」
知っていると答える若者は一人もいない。
まさか、本当だろうか。私は目を疑い、
それは、そのように巧みに編集されたものだという意見を友人に述べた。
しかしながら、友人の答えは違った。「君は現実を知らない。実際に街頭で
インタヴューをしてみたまえ」

私は実際に街頭インタヴューはしなかったが、思い立って8月15日、
バイト先のある若者に実際に聞いてみた。
「8月15日は何の日だか、知ってる?」
回答はNOであった。本当に8月15日を(さえ)知らなかった。
現実を知らないのは私のほうであった。

『ヒロシマナガサキ』は被爆者の証言を丁寧に再構成して
観る者の前に提示する映画である。
「すぐれたドキュメンタリーはシンプルなものだ」という監督のポリシーに基づき、
ナレーションや解説は一切挿入されず、証言と記録映像のみを構成することに
よって、そこに含まれるメッセージや政治性については、観客に自ら考えるべき
ものとして、投げかけられている。

声高にではなく淡々と、語る被爆者・関係者の証言が、その事実の深みを
表現する。

作品の編集と完成度は見事なものである。特に、被爆直後の子ども
記録映像と、現在の証言者(本人)の語りがカットバックする構成や
被爆者の描いた絵画と60年後の現在の静かな証言がかぶさる構成には
思わずふるえを覚えずにはいられない。
被爆者の証言をテーマごとに構成しなおすことによって、そこに映画としての
物語を作り出すこと。静かな作品であるが、監督の強い意思がそこには
反映している。

何よりも、この作品は第一にアメリカの人々に対するものとして制作された。
そこには、共感の普遍性への意思が強く働いている。被爆地・日本におい
ては多数の記録作品や物語、映画、文学が作られてきたが、それが本作品
の解説パンフレットで佐藤忠男が指摘するように、どの程度広く国内以外の
世界の人々に伝わってきたのか、考え直させられる契機を、
この映画は含んでいる。

しかし他方、重要な政治的テーマに答えを見いだしていない、という見方も
あるだろう。
それは、第二次大戦を終わらせるために、「原爆投下は必要だった」という
恐るべき「政治神話」に対する有効な反論をこの映画は十分に提示してい
ないからだ。

おそらく、監督の意思は本作品を政治性から遠ざけ、事実と証言を提示
するというスタンスに徹することによって、あえて多くの「アメリカ人」に対する
共感を呼び起こしたい、という点にある。
その点が、あえて被爆地・日本の視点から見るとどこかに物足りなさと、
思想的な不十分さ、歴史的な検証の欠落を感じてしまう部分でもあろう。
一つ一つの証言が力強く迫ってくるがゆえに、観客の側には痛みとともに、
多くの「問い」が去来するに違いない。
そして、この映画は「答え」を用意することをしない。

しかしながら、何よりもその点、
「考えるべきことは観る者の側に」ゆだねられている、
それが、この『ヒロシマナガサキ』という作品を日本で見ること、
向き合うことの意味だ、と、私にはそのように思われるのだ。

(後編につづく)

※ 後編では、『夕凪の街 桜の国』『二重被爆』を扱います。

『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)
(2007年/アメリカ/デジタル(ビデオ)/86分)
作品公式サイト:http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki


月曜日, 7月 30, 2007

『サイドカーに犬』

『サイドカーに犬』(根岸吉太郎監督/配給:ビターズエンド)
 http://sidecar-movie.jp

小品だが、しかし、とてもいい作品だと思う。

最近の日本映画のテーマの一つに、「家族」「恋人」「友人」のような、
カテゴリカルな関係に還元されない、オリジナリティのある関係を描こうと
する流れが存在している。これは、現代日本社会が高度情報化と都市化
のなかで人と人との関係性が流動化し、どのような着地点をもつのか、
多くの人々にわからなくなっていること、そしてその中で多くの文学表現が
何か共感を呼ぶ新しい関係性を描き出そうと、あがいていること、
そのことに底流が求められるだろう。

小学4年生の薫(松本花奈)は、ある日母親の家出と入れ替わりに家に
やって来た、ヨーコさん(竹内結子)という女性と出会い、ひと夏の、
年の離れた不思議な友情を結ぶ。

この作品が描こうとする物語は、青春ドラマでもないし、恋愛ドラマでもない。
かといって、子どもの視点からみた成長ドラマ、といい切れるわけでもない。

これは、現代児童文学が、対象化としようとしているテーマ性に近い
作品だと思う。そこにあるのは、定型的な戦後的「近代家族」が80年代以降に
流動化してゆくなかで、子どもがどのように自身の生き方を見いだしていくのか、
という現代的テーマだ。

『M/OTHER』(99)『火垂』(01)などで現代日本映画の一角を担う、
猪本雅三の瑞々しい動くキャメラ、根岸監督の作りすぎない自然な演出が、
主演の二人(薫、ヨーコ)の表情を活き活きと捉えている。

作品公式サイト;http://sidecar-movie.jp

土曜日, 12月 30, 2006

日記の執筆を再開

本日から当ブログ(日記)の執筆を再開する。長く間が空いてしまったが、これは主に私の怠惰のなせる技である。これから執筆をこまめに続けてゆきたいと思うので、ご期待をこう。

さて、映画を見にゆきたいのであるが、年末年始はうつ病に苦しみながら働いているので、なかなか映画を見に行けない日々が続いている。この状態を抜け出したら、見に行きたい作品はいろいろあるので、映画を見て感想を書くことも出来るであろう。

月曜日, 5月 08, 2006

うつ病とは

うつ病とは、精神が常に死の隣り合わせにある病気であると思う。

金曜日, 3月 31, 2006

うつ病で死ぬということ

今日の薬を飲む。3月も今日で終わりなのに、やるべきことがたまっている。出来る限り楽をしたい。

やるべきことを減らして楽に生きたいと思うのだが、なかなかできないのが、私のうつ病を長引かせているのかもしれないと思う。この性分とうつ病は一生直らない可能性もある。この場合、どうなるか。うつ病で死ぬとすれば、うつ病が一生直らなかったという結論になるであろう。

私はうつ病で死ぬかもしれない。