日曜日, 8月 19, 2007

『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)

「八月。死者たちの霊があたりに立ちこめる。」
ノーマ・フィールドは、『天皇の逝く国で』(1994)を
そのように書き出したと記憶している。
日本の八月は死者たちの月。
それは、死者たちの追憶と追悼をめぐる、政治の月でもある。

毎年八月になると、マスメディアの多くは戦争の記憶をめぐる報道
多くの(いくらかの)資源を割く。しかしながら、それが、現在の日本社会を
生きる人々の思いや感受性に届いているのだろうか、つねづね考える。
戦争をめぐる表現や記録を目にする機会も増えるが、その表現の質のあり方に
ついて、いくつかの公開中の映画作品を通じて考えてみたい。
特に、原爆の語りと記憶をめぐる新作が、今年は多く上映されている。

◆『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)

公開中のドキュメンタリー映画『ヒロシマナガサキ』の冒頭で、原宿の街頭で
多くの若者にインタヴューする光景が挿入される。
「1945年8月6日に何が起きたか、知っていますか?」
知っていると答える若者は一人もいない。
まさか、本当だろうか。私は目を疑い、
それは、そのように巧みに編集されたものだという意見を友人に述べた。
しかしながら、友人の答えは違った。「君は現実を知らない。実際に街頭で
インタヴューをしてみたまえ」

私は実際に街頭インタヴューはしなかったが、思い立って8月15日、
バイト先のある若者に実際に聞いてみた。
「8月15日は何の日だか、知ってる?」
回答はNOであった。本当に8月15日を(さえ)知らなかった。
現実を知らないのは私のほうであった。

『ヒロシマナガサキ』は被爆者の証言を丁寧に再構成して
観る者の前に提示する映画である。
「すぐれたドキュメンタリーはシンプルなものだ」という監督のポリシーに基づき、
ナレーションや解説は一切挿入されず、証言と記録映像のみを構成することに
よって、そこに含まれるメッセージや政治性については、観客に自ら考えるべき
ものとして、投げかけられている。

声高にではなく淡々と、語る被爆者・関係者の証言が、その事実の深みを
表現する。

作品の編集と完成度は見事なものである。特に、被爆直後の子ども
記録映像と、現在の証言者(本人)の語りがカットバックする構成や
被爆者の描いた絵画と60年後の現在の静かな証言がかぶさる構成には
思わずふるえを覚えずにはいられない。
被爆者の証言をテーマごとに構成しなおすことによって、そこに映画としての
物語を作り出すこと。静かな作品であるが、監督の強い意思がそこには
反映している。

何よりも、この作品は第一にアメリカの人々に対するものとして制作された。
そこには、共感の普遍性への意思が強く働いている。被爆地・日本におい
ては多数の記録作品や物語、映画、文学が作られてきたが、それが本作品
の解説パンフレットで佐藤忠男が指摘するように、どの程度広く国内以外の
世界の人々に伝わってきたのか、考え直させられる契機を、
この映画は含んでいる。

しかし他方、重要な政治的テーマに答えを見いだしていない、という見方も
あるだろう。
それは、第二次大戦を終わらせるために、「原爆投下は必要だった」という
恐るべき「政治神話」に対する有効な反論をこの映画は十分に提示してい
ないからだ。

おそらく、監督の意思は本作品を政治性から遠ざけ、事実と証言を提示
するというスタンスに徹することによって、あえて多くの「アメリカ人」に対する
共感を呼び起こしたい、という点にある。
その点が、あえて被爆地・日本の視点から見るとどこかに物足りなさと、
思想的な不十分さ、歴史的な検証の欠落を感じてしまう部分でもあろう。
一つ一つの証言が力強く迫ってくるがゆえに、観客の側には痛みとともに、
多くの「問い」が去来するに違いない。
そして、この映画は「答え」を用意することをしない。

しかしながら、何よりもその点、
「考えるべきことは観る者の側に」ゆだねられている、
それが、この『ヒロシマナガサキ』という作品を日本で見ること、
向き合うことの意味だ、と、私にはそのように思われるのだ。

(後編につづく)

※ 後編では、『夕凪の街 桜の国』『二重被爆』を扱います。

『ヒロシマナガサキ』(原題:White Light/Black Rain)
(2007年/アメリカ/デジタル(ビデオ)/86分)
作品公式サイト:http://www.zaziefilms.com/hiroshimanagasaki


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